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原理講論 1995年(平成7年)2月20日 第2版第1刷
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第四章 摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代
既に論じたように、復帰摂理の目的は、「メシヤのための基台」を復帰しようとするところにあるので、その摂理が延長されるに従って、その基台を復帰しようとする摂理も反復されていくのである。ところが「メシヤのための基台」を造成するためには、第一に、復帰摂理を担当したある中心人物が、ある期間内に、ある条件物を通じて、神のみ旨にかなう象徴献祭をすることによって、「信仰基台」を立てなければならないし、次には「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てて、神のみ旨にかなう「実体献祭」をつくらなければならない。それゆえに、「メシヤのための基台」を復帰するために、摂理を反復してきたすべての復帰摂理の路程は、結局、「象徴献祭」と「実体献祭」を蕩減復帰しようとした摂理の反復にほかならなかったのである。したがって、「メシヤのための基台」を復帰するために、摂理路程の反復によって形成されてきたところの摂理的同時性の時代は、結局、先に言及した二つの献祭を蕩減復帰しようとして生じた一連の摂理的な史実を通じて、その同時性が形成されてきたのである。我々はこのような原則のもとで、各摂理時代の性格を調べてみることにしよう。
ところで、その時代的性格を把握するためには、その摂理を担当した中心民族と、その中心史料とに対する理解が必要である。ゆえに、我々はまず、復帰摂理をなしてきた中心民族と、その史料とを、詳しく調べてみなければならないのである。人類歴史は、数多くの民族史を連結するというかたちで発展してきた。ところで、神は、その中で、ある民族を特別に選ばれて、「メシヤのための基台」を造成する典型的な復帰摂理路程を歩ましめることによって、その民族が天倫の中心となり、人類歴史を指導し得るように導いてこられたのである。このような使命のために選ばれた民族を選民という。
神の選民は、もともと、「メシヤのための家庭的な基台」を立てたアブラハムの子孫によってつくられたのである。それゆえに、アブラハムから始まったところの復帰摂理時代の摂理をなしてきた中心民族は、イスラエルの選民であった。したがって、イスラエル民族史は、この時代における復帰摂理時代の史料となるのである。
しかし、イスラエル民族は、イエスを十字架にかけて殺害してしまったので、その後は、選民としての資格を喪失したのである。それゆえに、このことを予知されたイエスは、ぶどう園の比喩でそれを暗示され、その結論として「神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう」(マタイ二一・43)と語られたのである。そしてまた、パウロも、アブラハムの血統的な子孫であるからといって、彼らがイスラエルになるのではなく、神の約束のみ旨を信奉する民だけがイスラエルになると言ったのであった(ロマ九・6〜8)。事実上、イエスから始まった復帰摂理延長時代の摂理をなしてきた中心民族は、イスラエル民族ではなく、彼らがなし得なかった復帰摂理を継承したキリスト教信徒たちであったのである。したがって、キリスト教史が、この時代の復帰摂理歴史の中心史料となるのである。このような意味において、旧約時代のアブラハムの血統的な子孫を第一イスラエルというならば、新約時代のキリスト教信徒たちは、第二イスラエルとなるのである。
旧約と新約の聖書を対照してみれば、旧約聖書の律法書(創世記から申命記までの五巻)、歴史書(ヨシュア記からエステル記までの十二巻)、詩文書(ヨブ記から雅歌までの五巻)、預言書(イザヤ書からマラキ書までの十七巻)は、各々新約聖書の福音書、使徒行伝、使徒書簡、ヨハネ黙示録に該当する。しかし、旧約聖書の歴史書には、第一イスラエル二〇〇〇年の歴史が全部記録されているが、新約聖書の使徒行伝には、イエス当時の第二イスラエル(キリスト教信徒)の歴史だけした記録されていない。それゆえに、新約聖書の使徒行伝が、旧約聖書の歴史書に該当する内容となるためには、イエス以後二〇〇〇年のキリスト教史が、そこに添加されなければならないのである。したがって、キリスト教史は、イエス以後の復帰摂理歴史をつくる史料となるのである。
上記の第一、第二、両イスラエルの歴史を中心として、同時性をもって展開せられた復帰摂理時代と、復帰摂理延長時代の内容をなしている各時代の性格を対照してみることによって、事実上、人類歴史は、生きて働いておられる神のみ手による、一貫した公式的な摂理によってつくられてきたということを、一層明白に理解することができるであろう。
ノアからアブラハムまでの四〇〇年のサタン分立期間は、アブラハムの献祭の失敗によって、サタンの侵入を受けたので、この四〇〇年期間を再び蕩減復帰する役割を担ったエジプト苦役時代には、ヤコブとその十二子息を中心とした七十人家族がエジプトに入ってきて、それ以来、その子孫たちは四〇〇年間、エジプト人たちによって悲惨な虐待を受けたのであった。この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰するローマ帝国迫害時代においても、イスラエルの選民たちが、イエスを生きた供え物としてささげる献祭に失敗し、彼を十字架に引き渡すことによって、サタンの侵入を受けるようになったので、メシヤ降臨準備時代四〇〇年のサタン分立期間を蕩減復帰するために、イエスを中心とする十二弟子と七十人の門徒、そうして、キリスト教信徒たちが、ローマ帝国において、四〇〇年の間、惨めな迫害を受けなければならなかったのである。
エジプト苦役時代においては、第一のイスラエル選民たちは、割礼を施し(出エ四・25)、犠牲をささげ(出エ五・3)、安息日を守りながら(出エ一六・23)、アブラハムの献祭の失敗によって侵入したサタンを分立する生活をしたのである。それゆえに、ローマ帝国迫害時代にも、第二イスラエル選民たちは、聖餐式と洗礼を施し、信徒自身をいけにえの供え物としてささげ、安息日を守ることにより、イエスを十字架に引き渡すことによって侵入したサタンを分立する生活をしなければならなかったのである。
エジプト苦役時代における四〇〇年間の苦役が終わったのち、モーセは、三大奇跡と十災禍の権威をもって、パロを屈伏させ、第一イスラエルの選民を率いてエジプトを出発し、カナンの地に向かったのであった。同様に、ローマ帝国迫害時代においても、第二イスラエルの選民たちに対する四世紀間の迫害が終わったのち、イエスは、心霊的な奇跡と権威とをもって、数多くの信徒たちを呼び起こされ、また、コンスタンチヌス大帝を感化させて、三一三年には、キリスト教を公認せしめ、つづいて、三九二年、テオドシウス一世のときに至っては、かくも甚だしく迫害してきたキリスト教を、国教として制定せしめられたのである。このようにして、キリスト教信徒たちは、サタンの世界から、霊的にカナンに復帰するようになったのであった。ところで、律法による外的な蕩減条件をもって摂理してこられた旧約時代においては、モーセが、外的な奇跡と権威でパロを屈伏させたのであるが、新約時代は、み言による内的な蕩減条件をもって摂理される時代であるので、心霊的な感化をもって摂理されたのである。
エジプト苦役時代が終わったのち、モーセは、シナイ山で十戒とみ言を受けることによって、旧約聖書の中心を立て、また、石板と幕屋と契約の箱を受けることによって、第一イスラエル選民たちが、メシヤを迎えるための神のみ旨を立てていくようになったのである。これと同じく、第二イスラエル選民たちは、ローマ帝国迫害時代が終わったのちに、旧約時代の十戒と幕屋理想とを霊的に成就するためのみ言をもって、使徒たちの記録を集め、新約聖書を決定し、そのみ言を中心とする教会をつくって、再臨主を迎えるための基台を広めていくようになったのである。イエス以後においては、イエスと聖霊とが、直接、信徒たちを導かれたので、それ以前の摂理時代のように、ある一人の人間を神に代わらせ、全体的な摂理の中心人物として立てられたのではなかった。
モーセの使命を継承したヨシュアが、イスラエルの選民を導いてカナンの地に入ったのち、オテニエル士師をはじめとした、十二士師のあとに引き続いて、サムソン、エリ、サムエルに至るまで、合わせて十五士師が、イスラエルを指導した四〇〇年間を、士師時代というのである。彼ら士師たちは、次の時代において分担された預言者と祭司長と国王の使命を、すべて兼任していたのであった。それゆえに、ユダヤ教の封建社会は、このときから始まったのである。このような士師時代を実体的な同時性をもって蕩減復帰する時代である新約時代の教区長制のキリスト教会時代においても、教区長たちは、キリスト教信徒を指導するという面において、士師のそれに該当する職分を帯びていたのである。
イエス以前の時代では、第一イスラエルを中心として、霊肉合わせて「メシヤのための基台」を造成してきたので、政治と経済と宗教とが、一人の指導者のもとに統率されていたのである。しかし、イエス以後の路程においては、既に造成された「メシヤのための霊的基台」の上で、霊的な「王の王」であられるイエスを中心として、霊的な王国を建設するようになったので、新約時代における第二イスラエルからなるキリスト教界は、復活されたイエスを王として信奉する、一つの国土のない霊的な王国であった。
教区長は、このような霊的な王国建設において、士師と同じ使命を持っていたので、ときには、預言者にもならなければならず、あるときには、祭司長の役割を、そして、またあるときには、教区を統治する国王のような使命をも果たさなければならなかったのである。このようなわけで、キリスト教の封建社会は、このときから始まったのであった。
士師時代においては、サタンの世界であるエジプトから出発したイスラエル民族が、みな荒野で倒れてしまい、そこで生まれた彼らの子孫たちだけが、エジプト以来たった二人の生き残りであるヨシュアとカレブの導きに従い、カナン後に入ってのち、各部族に分配された新しい土地で、士師を中心として新しい選民を形成し、イスラエル封建社会の土台を築きあげたのである。これと同じく、教区長制キリスト教会時代においても、キリスト教は、サタンの世界であるローマ帝国から解放されてのち、四世紀に、蒙古族の一派であるフン族の西侵により西ヨーロッパに移動してきたゲルマン民族に、福音を伝えることによって、西ヨーロッパの新しい土地で、ゲルマン民族を新しい選民として立て、キリスト教封建社会の土台を形成したのであった。
エジプトを出発したイスラエル民族のカナン復帰路程において「実体基台」をつくるために、幕屋を、メシヤの象徴体であると同時に、アベルを代理する条件物として立てたという事実は、既に、モーセを中心とした復帰摂理摂理で詳しく論じたはずである。ゆえに、士師時代におけるイスラエル民族は、士師たちの指導に従って、幕屋から下されるみ旨のみを信奉しなければならなかったのであるが、彼らはカナンの七族を滅ぼさないで、そのままにしておいたので、彼らから悪習を習い、偶像を崇拝するようになってしまい、その結果、彼らの信仰に、大きな混乱を引き起こしたのである。これと同じく、教区長制キリスト教会時代においても、キリスト教信徒たちは、教区長制の指導に従い、メシヤの形象体であると同時に、アベルを代理する条件物である、教会のみ旨のみを信奉しなければならなかったのであるが、彼らはゲルマン民族から異教の影響を受けたために、彼らの信仰に大きな混乱を引き起こすようになったのである。
統一王国時代に入るに従って、士師が第一イスラエルを指導した時代は過ぎさり、神の命令を直接受ける預言者と、幕屋と神殿を信奉する祭司長と、そして、国民を統治する国王が鼎立して、復帰摂理の目的を中心とする、各自の指導的な使命を遂行しなければならなくなった。それゆえに、この時代を実体的な同時性をもって蕩減復帰するキリスト王国時代においても、教区長が第二イスラエルを指導してきた時代は過ぎさり、預言者に該当する修道院と、祭司長に該当する法王と、そして国民をを統治する国王とが、復帰摂理の目的を中心として、第二イスラエルを指導していかなければならなくなったのである。当時のキリスト教は、エルサレム、アンテオケ、アレクサンドリヤ、コンスタンチノープル、ローマなどの五大教区に分立していた。その中で、最も優位におかれていたローマ教区長は、他の教区を統轄する位置におかれていたので、特に彼を法王と呼ぶようになったのである。
イスラエル民族が、エジプトから解放されてのちのモーセの幕屋理想は、統一王国に至って初めて、国王を中心とする神殿理想として現れ、王国をつくったのであるが、これは、将来イエスが、実体神殿として来られて王の王となられ、王国を建設するということに対応する形象的路程であった(イザヤ九・6)。それと同じく、キリスト王国時代においても、キリスト教信徒たちが、ローマ帝国から解放されたとき、聖アウグスチヌスによって、そのキリスト教理想として著述されたところの「神国論」が、この時に至って、チャールズ大帝によるキリスト王国(チャールズ大帝のときからのフランク王国)として現れたのであるが、これは、将来イエスが王の王として再臨せられ、王国を建設するということに対応する形象的路程であったのである。それゆえに、この時代には、国王と法王とが神のみ旨を中心として完全に一つになり、キリスト教理想を実現することにより、イエス以後、「メシヤのための霊的基台」の上で、法王を中心としてつくってきた国土のない霊的王国と、国王と中心とした実体的な王国とが、キリスト教理想と中心として一つとならなければならなかったのである。もし、当時、そのようになったならば、宗教と政治と経済とは相一致して、「再臨されるメシヤのための基台」をつくり得たはずであった。
統一王国時代において、「信仰基台」を復帰する中心人物は、預言者を通じて示される神のみ言を実現していく役割を国王であった。預言者や、祭司長は、神のみ言を代理する者であるから、その時代におけるアベルの立場に立つようになる。しかし、復帰摂理路程において、彼は、あくまでも霊界を代理して、天使長の立場から実体の世界を復帰していかなければならないので、国王が立ち得る霊的な基台を準備し、王を祝福して立たせたのちには、彼の前でカインの立場に立たなければならないのである。したがって、国王は、預言者を通じて下されるみ言によって国家を統治しなければならないのであり、また、預言者は、一人の国民の立場で国王に従わなければならないのである。それゆえに、この時代において、「信仰基台」を復帰する中心人物は、国王であった。事実、アブラハムから八〇〇年が経過したときに、預言者サムエルは、神の命を受けてサウルに油を注いで祝福することにより、彼を第一イスラエル選民の最初の王として立てたのである(サムエル上八・19〜22、同一〇・1〜24)。サウル王が、士師四〇〇年の基台の上で、彼の在位四十年を、神のみ旨にかなうように立てられたならば、彼は、エジプト苦役四〇〇年とモーセのパロ宮中四十年とを、共に蕩減復帰した立場に立つことができ、したがって彼は、「四十日サタン分立基台」の上で、「信仰基台」を立てることができたはずであった。すなわち、サウル王が、この基台の上で、メシヤの形象体である神殿を建設し、それを信奉したならば、彼は、モーセが第一次民族的カナン復帰に失敗しないで成功し、神殿を建設してそれを信奉したのと同様の立場に立つことができたのである。そして、イスラエルの選民たちが、サウル王を中心とするその「信仰基台」の上で、神殿を信奉していくこの国王を絶対的に信じ従ったならば、彼らは「実体基台」を造成して「メシヤのための基台」をつくり得たはずであった。ところが、サウル王は、預言者サムエルを通して与えられた、神の命令に逆らったので(サムエル上一五・1〜23)、神殿を建設することができなかったのである。このように、神殿を建設することができなかったサウル王は、すなわち、第一次民族的カナン復帰に失敗したモーセのような立場におかれたのであった。そして、サウル王を中心とする復帰摂理も、モーセのときと同じように、ダビデ王の四十年を経て、ソロモン王の四十年に至り、初めてその「信仰基台」が造成されて神殿を建設することができたのである。
あたかも、アブラハムの目的が、イサクを経て、ヤコブのときに成就されたように、アブラハムの立場にあったサウル王の神殿建設の目的は、ダビデ王を経て、ソロモン王のときに成就されたのである。しかし、その後、ソロモン王は淫乱に溺れて、実体献祭のためのアベルの立場を離れたので、「実体基台」はつくることができなかったのである。したがって、統一王国時代に成就されるべきであった「メシヤのための基台」は造成されなかった。
キリスト王国時代においては、統一王国時代のすべてのものを、実体的な同時性をもって蕩減復帰しなければならなかったので、この時代の「信仰基台」を蕩減復帰する中心人物は、修道院と法王とのキリスト教理念を実現しなければならない国王であった。したがって、法王は、統一王国時代における預言者の目的を信奉する祭司長の立場におかれていたので、彼は、国王がキリスト教理想を実現していくことのできる霊的な基台を準備し、彼を祝福して、王として立てたのちには、一人の国民の立場から、彼は従わなければならなかったし、また、国王は、法王の理想を奉じて、国民を統治しなければならなかったのである。事実上、このような摂理の目的のために、法王レオ三世は、紀元八〇〇年に、チャールズ大帝を祝福して、金の王冠をかぶらせることにより、彼を第二イスラエル選民の最初の王として立てたのであった。
チャールズ大帝は、士師時代四〇〇年を実体的な同時性をもって蕩減復帰した、教区長制キリスト教会時代四〇〇年の基台の上に立っていたので、サウル王のように、「四十日サタン分立基台」の上に立つようになったのであった。したがって、チャールズ大帝が、この基台の上で、キリストのみ言を信奉し、キリスト教理想を実現していったならば、この時代の「信仰基台」は造成されるようになったいたのである。事実、チャールズ大帝は、法王から祝福を受け、王位に上ることによって、この基台をつくったのであった。それゆえに、当時の第二イスラエルが、このような立場にいた国王を、絶対的に信じ、彼に従ったならば、そのときに「実体基台」は立てられたはずであり、したがって「再臨されるメシヤのための基台」も、成就されるはずであったのである。
もし、このようになったならば、「メシヤのための霊的基台」の上で、法王を中心として立てられた霊的な王国と、国王を中心とした実体的な王国とが一つとなり、その基台の上にイエスが再び来られて、メシヤ王国をつくることができたはずである。ところが、国王が神のみ旨を信奉し得ず、「実体献祭」をするための位置を離れてしまったので、実体基台は造成されず、したがって、「再臨されるメシヤのための基台」もつくられなかったのである。
サウルによって始まった統一王国時代は、ダビデ王を経て、ソロモン王に至り、その際、彼が王妃たちの信じていた異邦人の神々に香を焚き犠牲をささげた結果(列王上一一・5〜9)、この三代をもって、カインの立場であった十部族を中心とする北朝イスラエルと、アベルの立場であった二部族を中心とする南朝ユダに、分立されてしまった。そして、南北王朝分立時代がくるようになったのである。これと同じように、チャールズ大帝によって始まったキリスト王国も、三代目に至って、孫たち三人の間に紛争が起こり、そのためこの立場は東、西両フランクとイタリアに三分されたのである。しかし、イタリアは東フランクの支配を受けたので、実際においては、東、西フランク王国に両分されたのと同様であった。また、東フランクは、オットー一世によって大いに興隆し、神聖ローマ帝国と呼ばれるようになり、彼はローマ皇帝の名をもって西ヨーロッパを統治し、政教二権を確保しようとしたのであった。東フランクは、西フランクに対してアベルの立場に立つようになったのである。
ソロモン朝の亡命客であったヤラベアムを中心とした北朝イスラエルは、二六〇年の間に十九王が代わった。彼らは互いに殺害しあい、王室が九度も変革され、列王の中には、善良な王が一人もいなかったのである。したがって、神は南朝ユダから遣わされた預言者エリヤを通して、カルメル山の祭壇に火をおこさせることによって、バアルとアシラの預言者八五〇名を滅ぼされ(列王上一八・19〜40)、そのほかにも、エリシャ、ヨナ、ホセア、アモスのような預言者たちを遣わされて、命懸けの伝道をするように摂理されたのであった。しかし、北朝イスラエルは依然として邪神を崇拝しつづけて、悔い改めることがなかったので、神は、彼らをアッシリヤに引き渡して滅亡させることにより、永遠に選民としての資格を失うように摂理されたのである(列王下一七・17〜23)。
また、ソロモンの息子であるレハベアムを中心とした南朝ユダは、ダビデよりゼデキアに至るまで、正統一系を通しつづけ、三九四年間にわたる二十人の王の中には、善良な王が多かったのであるが、ヨシヤ王以後は、悪い王たちが続出し、北朝の影響を受けて偶像崇拝にふけるようになったので、これらもまた、バビロニアの捕虜となってしまったのである。
このように、南北王朝分立時代において、イスラエル民族が、神殿理想に相反する立場に立つたびに、神は継続して、四大預言者と十二小預言者を遣わされて、彼らを励まし、内的な刷新運動を起こされたのである。しかし、彼らは、預言者たちの勧告に耳を傾けず、悔い改めなかったので、神は、彼らをエジプト、カルデヤ、シリヤ、アッシリヤ、バビロニアなどの異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をされたのであった。
この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰する東西王朝分立時代においても、同じく、法王庁が腐敗して、トマス・アクィナス、聖フランシスなど、修道院の人物たちが彼らに勧告して、内的な刷新運動を起こしたのである。しかし、彼らもまた悔い改めず、堕落と腐敗に陥ったため、神は彼らを異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をなさったのであり、これがすなわち、十字軍戦争であった。エルサレムの聖地が、カリフ帝国に属していたときには、キリスト教の巡礼者たちが、手厚い待遇を受けたのであるが、カリフ帝国が滅んでのち、セルジュク・トルコがエルサレムを占領したあとには、彼らは巡礼者たちを虐待したので、これに憤慨した歴代の法王たちは、この聖地を回復するために、十字軍戦争を起こしたのである。一〇九六年に起こった十字軍は、その後約二〇〇年にわたって、七回の遠征を行ったのであるが、彼らは敗戦を繰り返すだけで終わってしまった。
南北王朝分立時代において、北朝イスラエル王国と南朝ユダ王国の国民たちが、みな、異邦人の捕虜となって連れていかれたので、イスラエルの君主社会は崩壊してしまった。これと同じく、東西王朝分立時代においても、十字軍が異教徒に破れ、法王権が、その権威と信望とを完全に失墜するにつれて、国民精神は、その中心を失ってしまったのである。それだけでなく、封建社会を維持していた領主と騎士たちが、多く戦死してしまったので、彼らは政治的な基盤を失ってしまい、また、度重なる敗戦により、莫大な戦費が消耗されたので、彼らは甚だしい経済的困窮に陥ってしまったのである。ここにおいてキリスト教君主社会は、ついに崩壊しはじめたのである。
第五節 ユダヤ民族捕虜および帰還時代と法王捕虜および帰還時代
ユダヤ民族は不信仰に陥って、一向に悔い改めなかったので、神殿理想を復帰することができず、その結果、神は再びこの目的を成就されるために、ちょうど、アブラハムの献祭失敗を蕩減復帰するために、イスラエルをして、サタン世界であるエジプトに入らせ、そこで苦役をするようにされたと同様に、ユダヤ民族も、サタン世界であるバビロンに捕虜として連れていかれ、苦役をするように摂理されたのである。
これと同じく、既に論じたように、神がキリスト王国時代を立てられたのは、法王と国王を中心として、「再臨のメシヤのための基台」を造成され、その基台の上で、メシヤとして再臨なさる王の王に、その国と王位を引き渡すことによって、メシヤ王国を建設するためであった(イザヤ九・6、ルカ一・33)。しかるに、国王と、「実体基台」の中心人物として立てるための霊的な基台を造成しなければならなかった法王たちが、あくまで悔い改めなかったので、彼らは「再臨のメシヤのための基台」をつくることができなかったのである。ここにおいて、神は、この基台を復帰するための新しい摂理をされるために、法王が捕虜となって苦役を受けるようにされたのであった。
前に、エホヤキム王をはじめダニエルその他の王族、そして、政府の大臣たち、官吏と工匠など、数多くのユダヤ人たちが、バビロニア王ネブカデネザルによって、捕虜として捕らわれていった七十年の期間があり(エレミヤ三九・1〜10、列王下二四、二五)、ペルシャが、バビロニアを滅ぼし、クロス王が詔書を発布して彼らを解放したのち、三次にわたって故郷に帰還し、預言者マラキを中心として、メシヤのために準備する民族として立てられるときまでの一四〇年の期間があったのである。この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰する、法王捕虜および帰還時代においても、やはりこのような路程を歩まなければならなかったのである。
法王と僧侶たちは、彼らの不道徳ゆえに、国民の信望を失うようになったので、法王の権威は地に落ちてしまった。また、十字軍戦争以後、封建制度が崩壊して近代国家が成立してからは、王権が伸長していき、法王と国王の衝突が激化していったのである。そして、法王ボニファキウス八世は、フランス王フィリップ四世と衝突して、一時、彼によって禁固されるというところにまで至った。その後、一代を経て、一三〇五年に法王として選出されたクレメンス五世は、一三〇九年に、法王庁をローマから南フランスのアヴィニョンに移し、そこにおいて七十年間、歴代の法王たちはフランス王の拘束を受けながら、捕虜のような生活をするようになったのである。その後、法王グレゴリー十一世は一三七七年に至ってローマに帰還した。
彼が死んだ後、枢機卿たちは、イタリアのパリの監督ウルバヌス六世を、法王として選出したのであった。しかし、フランス人が多数であった枢機卿たちは、間もなくウルバヌスを排斥して、別に、クレメンス七世を法王に選出し、南フランスのアヴィニョンに、また一つの法王庁を立てるようになった。この分離は次の世代に入り、改革会議において解決されるときまで継続されたのである。すなわち、一四〇九年に枢機卿たちは、イタリアのピサにおいて会議を開き、分離されてきた二人の法王をみな廃位させ、アレクサンドリア五世を正当な法王として任命したのである。しかし廃位された二人の法王がこれに服さなかったので、一時は、三人の法王が鼎立するようになった。その後、再び監督と大監督のほかに、神学者、王侯、使節など、多くの参席者をもって、コンスタンツ大会を開催、三人の法王を一斉に廃位させ、再び、マルニヌス五世を法王に選出したのである。
このようにして、法王選出の権限を枢機卿たちから奪い、ローマ教会の至上権を主張してきたこの会議にその権限が移されてしまったのである(一四一八年)。この会議は、その後、スイスのバーゼルにおいて、ローマ教会の機構を立憲君主体にする目的をもって開催された。ところが、法王は、会衆がこのように会議を牛耳るのを快く思わず、この会議に参席しなかったばかりでなく、それを流会させようとまでたくらんだのである。これに対し法王党以外の議員たちは開会を強行したのであるが、結局一四四九年に至って、自ら解散してしまった。このようにして、ローマ教会内に立憲君主体を樹立しようとした計画は、水泡に帰してしまい、その結果一三〇九年以来、失った法王専制の機能を回復したのである。十四世紀の諸会議の指導者たちは、平信徒たちを代表として立て、この会議に最高の権限を与えることによって、腐敗した法王と僧侶たちを除去しようとした。ところが、法王権は彼らを幽閉してしまったので、前回と同じ立場に立ち戻ってしまったばかりでなく、ウィクリフとフスのような改革精神を抱いていた指導者を、極刑に処するようにまでなったので、このときからプロテスタントの宗教改革運動が芽を吹きだしはじめたのである。このように法王が一三〇九年から七十年間、南フランスのアヴィニョンに幽閉されたのち、三人の法王に分立される路程を経て、再び、ローマ教会を中心とする法王専制に復帰し、その後一五一七年にルターを中心として宗教改革が起こるときまでの約二一〇年間は、ユダヤ民族がバビロンに七十年間捕虜として連行されたのち、三次にわたってエルサレムに帰還し、その後マラキを中心として政教の刷新を起こすようになったときまでの二一〇年間を実体的な同時性をもって蕩減復帰する期間であったのである。
イスラエル民族は、バビロンの捕虜の立場から、エルサレムに戻ってのち、メシヤ降臨準備時代の四〇〇年を経て、イエスを迎えたのであった。ゆえに、これを蕩減復帰するためには、キリスト教信徒たちも、法王がアヴィニョン捕虜生活からローマに帰還してのち、メシヤ再降臨準備時代の四〇〇年を経て、初めて再臨なさるイエスを迎え得るようになっていたのである。
四十日サタン分立期間をもって「信仰基台」を復帰するための摂理が、継続的なサタンの侵入によって延長を重ねてきた、アダム以後四〇〇〇年の復帰摂理歴史の銃的な蕩減条件を、この歴史の最終的な一時代において、横的に蕩減復帰するために、メシヤ降臨準備時代があったのである。
それゆえに、この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰するためには、アダムから始まる六〇〇〇年の復帰摂理歴史の縦的な全蕩減条件を、この歴史の最終的な一時代において、横的に蕩減復帰するためのメシヤ再降臨準備時代がなければならない。
バビロンの捕虜生活から帰還してきたイスラエル民族は、ネブカデネザル王によって破壊された神殿を新築し、また、マラキ預言者の指導によって、邪神を崇拝してきた過去の罪を悔い改めながら、律法を研究し、信仰の刷新運動を起こすことによって「信仰基台」を復帰してきたのである。これと同じく、法王がローマに帰還したのちの中世におけるキリスト教信徒たちは、ルターなどを中心として、宗教の改革運動を起こし、中世暗黒時代の暗雲を貫いて、新しい福音の光に従い、信仰の新しい道を開拓することによって、「信仰基台」を復帰してきたのであった。
ヤコブがハランからカナンに帰還し、エジプトの入るまでの約四十年の準備期間を、形象的な同時性をもって蕩減復帰する時代が、メシヤ降臨準備時代であった。そして、この時代を再び実体的な同時性をもって蕩減復帰する時代が、メシヤ再降臨準備時代となるのである。したがって、この時代のすべてのキリスト教信徒たちは、あたかも、エジプトでヨセフに会うときまでのヤコブの家庭、または、イエスを迎えるときまでのイスラエル民族のように、あらゆる波乱と苦難の道を歩まなければならないのである。復帰摂理時代は、律法と祭典などの外的な条件をもって、神に対する信仰を立ててきた時代であったので、メシヤ降臨準備時代における第一イスラエルは、ペルシャ、ギリシャ、エジプト、シリヤ、ローマなどの異邦の属国とされて、外的な苦難の道を歩まなければならなかった。しかし、復帰摂理延長時代はイエスのみ言を中心として、祈りと信仰の内的条件をもって、神に対する信仰を立ててきた時代であるがゆえに、メシヤ再降臨準備時代における第二イスラエルは、内的な受難の道を歩まなければならないのである。すなわち、この時代においては、文芸復興の主導理念である人文主義と、これに続いて起こる啓蒙思想、そして、宗教改革によって叫ばれるようになった、信仰の自由などによる影響のために、宗教と思想に一大混乱をきたすようになり、キリスト教信徒たちは、言語に絶するほどの内的な試練を受けるようになるのである。
このように、イエス降臨のための四〇〇年の準備時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰するために、彼の再臨のための四〇〇年の準備期間があったのであるが、我々は、ここで、メシヤを迎えるための準備期間であるこの二つの時代において、その時代的な背景と環境とが、各々どのようなかたちで造成されてきたかということについて、調べてみることにしよう。
初臨のときには、神がその選民のために、メシヤが降臨される四三〇年前に、預言者マラキを遣わされて、メシヤが降臨されることを預言なさるとともに、一方においては、ユダヤ教を刷新して、メシヤを迎えうる選民としての準備をするようにされたのであった。また、異邦人たちに対しては、これとほとんど同時代に、インドの釈迦牟尼(前五六五〜四八五)によって印度教を発展せしめ、仏道の新しい土台を開拓するように道を運ばれたし、ギリシャでは、ソクラテス(前四七〇〜三九九)の手でギリシャ文化時代を開拓せしめ、また、東洋においては、孔子(前五五二〜四七九)によって儒教をもって人倫道徳を立てるようにされるなど、各々、その地方とその民族に適応する文化と宗教を立てられ、将来来られるメシヤを迎えるために必要な、心霊的準備をするように摂理されたのである。それゆえに、イエスはこのように準備された基台の上に来られ、キリスト教を中心としてユダヤ教(Hebraism)を整理し、ギリシャ文化(Hellenism)、および、仏教(Buddhism)と儒教(Confucianism)などの宗教を包摂することによって、その宗教と文化の全域を、一つのキリスト教文化圏内に統合しようとされたのである。
イエスの初臨を前にして、メシヤ降臨に対する準備をするために摂理されたその環境造成の時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰するためにきた時代が、文芸復興時代であった。それゆえに、文芸復興時代は、メシヤ再降臨のためのその時代的な背景と環境とを造成するための時代であったのである。したがって、今日において、我々が見ているような、政治、経済、文化、科学など、あらゆる面における飛躍的な発展は、みなこの文芸復興時代から急激に始まって、再臨されるイエスを迎えることができる今日の時代的な背景と環境とを、成熟させてきたのである。すなわち、イエスのときには、ローマ帝国の勃興により、地中海を中心として形成された広大な政治的版図と、四方八方に発達した交通の便、そして、ギリシャ語を中心として形成された広範なる文化的版図などによって、キリストを中心とするイスラエル、イスラエルを中心とするローマ、ローマを中心とする世界へと、メシヤ思想が急速に拡張し得る平面的な基台が、既に造成されていたのであった。これと同じく、彼の再臨のときに当たる今日においても、列強の興隆により、自由を基盤とした民主主義の政治的版図が世界的に広められているのであり、交通および通信の飛躍的な発達によって、東西の距離は極度に短縮され、また、言語と文化とが世界的に交流しあい、メシヤ再降臨のための思潮が、自由にかつ迅速に、全人類の胸底に流れこむことができるように、既に、その平面的版図が完全に造成されているのである。したがって、メシヤが再臨されれば、彼の真理と思想を急速度に伝播して、短時日の内に世界化することによって、これがそのまま適切な平面的基台になるであろうということはいうまでもない。
創造原理で、既に論じたように、地上天国は、完成した人間一人の姿と同じ世界である。したがって、堕落した世界は、堕落した人間一人の姿に似ているということができる。ゆえに、我々は堕落した人間一人の生活を調べてみることによって、人類罪悪史の全体的な動向を、のぞき見ることができるといわなければならない。
堕落した人間には、善を指向する本心と、この本心の命令に逆らって悪を指向する邪心とがあって、この二つの心が常に闘っているということを、我々は否定することができない。したがってまた、本心の命令に従う善行と邪心の命令に従う悪行とが、我々の一つの体の内にあって、互いに衝突しあっているという事実をも、我々は否定することができない。このように、それ自身の内部で闘争を行っている各個体が、横的に連結して生活を営んでいるのが社会なので、そこでもまた、闘争が起こらざるを得ないようになっているのである。さらに、このように闘争によってもつれあっている社会生活が、時間の流れとともに、縦的に変転してきたのが、人類の歴史なので、この歴史は、必然的に闘争と戦争とをもって連係されるものとならざるを得ないのである。
しかし、人間は、本心と邪心との執拗なる闘いの中で、悪を退け、善に従おうとして不断に努力をしている。したがって、その行動も、次第に悪行を捨て、善を行うという方向を取るようになるのである。堕落した人間にも、このように善を指向する本心の作用があるので、人間は、神の復帰摂理に対応して、善の目的を成就していくようになっている。
したがって、このような人間たちによってつくられてきた歴史は、善悪が交錯する渦の中にありながら、大局的には、悪を退け、善を指向してきたというのが事実なのである。それゆえに、歴史が指向する終局的な世界は、すなわち善の目的が成就された天国でなければならないのである。ゆえに、闘争や戦争は、善の目的を達成するために善と悪とを分立してきた一つの過程的な現象でもあるという事実を、我々は知らなければならない。そうであるから、闘いの結果が、一時的には悪の勝利に帰したとしても、結局は、その悪の結果によって、歴史は、より大きい善の目的を成就していく摂理路程に取って代わられるようになるのである。このような見地からして、我々は人類歴史が、神の復帰摂理によって、絶えず善と悪との分立を繰り返しながら善を指向して発展してきたという事実を知ることができるのである。
ところが、人間がサタンと血縁関係を結んだことにより、サタンは、堕落した人間を中心として、将来、神がつくろうとなさるものと同じ型の世界を、先立ってつくってきたので、結果的に、人類歴史は、原理型の非原理世界を形成してきたのであった。したがって、人類歴史の終末においては、神が地上天国を復帰される前に、サタンを中心とする、それと同じ型の非原理世界が、先につくられるようになっているのである。これが、すなわち、共産主義世界なのである。サタンは、このように、神が成就されようとなさる目的を、常に先立って、非原理的に成就してきているので、復帰摂理路程においては、真なるものが現れる前に、必ず偽なるものが先に、真なるものと同じ姿をもって現れるようになるのである。キリストに先立って、偽キリストが現れるということを預言された聖書のみ言は、このような原理によってのみ理解することができるのである。
(一) 復帰摂理時代における歴史発展
堕落した人間たちによって、最初につくられた社会は原始共同社会であった。この社会は、サタンを中心としてお互いに足らないものを補いあう社会のことで、これは元来、神が完成した人間を中心としてつくろうとなさった共生共栄共義主義社会を、サタンが先立って非原理的につくったものであった。もし、この社会に、闘争も分裂もなかったならば、この社会は、そのまま永続するはずであるから、神の復帰摂理は成就されるはずがないのである。
しかし、前に説明したように、堕落人間は、その個体において、二つの心が互いに相争い、また、この心の争いが行動として現れて、個体と個体とが互いに闘いあうようになるので、原始共同社会を、そのまま平和的に維持することはできない。のみならず、この社会が、互いに、経済的な利害関係を異にする社会へと発展するにつれて、この闘いがより大きく展開されてきたということは、いうまでもないことである。このように、神の復帰摂理に対応しようとする人間の本心の作用によって、サタンを中心として造成された原始共同社会には、最初から闘いによる分裂が生じていたのであった。
サタンを中心とする人類罪悪史の発展過程を見れば、原始共同社会において、分裂した人間を中心として氏族社会が形成されたのであり、また、それが更に成長して、封建社会をつくったのち、その版図と主権を更に一層大きく拡張して、君主社会をつくってきたのであった。これは、将来、神がこの罪悪世界から善なる個体を呼び給い、彼らを中心として善なる氏族社会を立て、更に、善なる封建社会を作ったのち、善なる王国を建設することによって、メシヤを迎えるための善なる版図と主権を樹立しようとされたので、サタンがこれを先に知ってそのような型の路程を歩んできたのである。
事実上、神はこのような罪悪世界から、善を中心とするアブラハムを呼びだされて、彼を通じて、神のみ旨を信奉し得る子女を繁殖することによって、イスラエルの氏族社会を立てられたのであった。その後、アブラハムの子孫たちは、エジプトに入って、氏族から部族へと発展してきたのであり、彼らがカナンに戻ってきたのちには、士師時代をつくったのであるが、この士師時代を中心として形成されてきた社会が、すなわち、イスラエルの封建社会であったのである。では、この社会を、どうして封建社会というのであろうか。封建社会の特性は、奉仕と服従とを前提とする主従関係による政治制度と、封土を中心とする封鎖的な自給自足の経済体制にあるのである。士師時代は、とりもなおさず、このような性格の社会であった。しなわち、カナンの地に戻ってきたイスラエル民族の各部族には、土地が分配され、その部族たちは、大領主と同じ位置におかれていた士師を中心として封建社会を形成したのであった。それゆえに、この時代をイスラエル封建社会というのである。
封建社会における一般民衆は、その社会の性格上、その領主の思想と指導とに絶対的に服従したのであった。したがって、その領主が神のみ旨のもとに立っている限り、その民は彼に従って、自然に天の側に立つようになるのである。また、彼らはこのような主従関係による封鎖的な政治と経済とを基調とする社会制度のもとにおかれていたので、それによってサタンの侵入を受けない環境の中で生活することができたのである。このように、氏族社会が封建社会に発展するようになったのは、サタンの所有を天の側に奪い返すことによって、天の側の主権に属するより大きい版図を形成し、サタンの侵入を防ぐためであったのである。このような神の摂理があったので、またしてもそれを知っていたサタンは、これに備えて、一歩先んじてサタン側の封建社会をつくることによって、サタンの主権を維持しようとしたのであった。
一方において、この封建社会はまた、より大きい主権と版図の君主社会をつくるための基台を造成するためにも、到来するようになったのである。すなわち、イスラエルの封建社会をもって、サタン側の侵入を防ぐことができる小単位の天の側の主権と、民と、経済的な版図とを形成したのち、再びこれらを統合して、より大きい主権と、民と、経済的な版図とを拡張し強化するために、イスラエルの君主社会がつくられたのであったが、これが、すなわち、サウル王をもって始まった統一王国時代であった。
既に、前にも言及したように、イエスはどこまでも王の王として来られた方であった(黙一一・15)。それゆえに、神がイスラエル民族の君主社会を形成されたのは、将来メシヤが来られて、王の王として君臨することができるその基台を造成なさるためであったのである。
神がこのような摂理のもとで、イスラエルの君主社会をつくろうとされたので、サタンの方では、また、これに先んじて、サタンを中心とする君主社会を形成することにより、神の摂理を妨げてきたのである。それゆえに、統一王国時代がくる前に、既にサタンの世界においては、エジプト王国が、紀元前数十世紀に第一王朝を立てたのち、三十王朝も継承されたのであり、古バビロニア王国は、紀元前十八世紀のハムラビ王のときに、既にぜんメソポタミヤを統一していたし、さらにヒッタイト王国は、紀元前十四世紀に、シリヤを中心として、東方の最強国となったのである。そして、サタン側の世界においても、これまた、神の復帰摂理に対応する人間本心の作用によって、より善なる王国と、より悪なる王国とが互いに闘いながら、王国を単位とする分立をなしてきたのであった。したがって、当時のソロモン王が、もし最後まで神のみ旨を信奉したならば、彼は、エジプト、メソポタミヤ、クレタ(あるいはミノア)などの三大文明を吸収した文化的な社会環境において、彼の卓越した政治能力を発揮して、東方の諸国を統一したであろうし、進んでは、メシヤ理想を実現し得る世界的な版図を形成したはずであった。ところが、ソロモン王の堕落によって、神は、この君主社会を崩壊させてしまうような摂理をなさらねばならなくなったのである。
このように、統一王国時代の王たちが「メシヤのための基台」を立てて、神の主権を復帰し得る基台を準備することができなかったので、結局、神はこの王国を、南北二つの王国に分立してしまわれたのであった。そして、神のみ旨に逆らった北朝は、異邦アッシリヤ(エジプト、古バビロニア、ヒッタイトなどの王国が衰えるに従って、このアッシリヤ王国が強大となり、紀元前八世紀にはエジプトを含めたオリエントの中心部を征服して、最初の世界帝国を建設した)に渡して、滅亡するようにされたのであり、神のみ旨を信奉した南朝ユダも、間もなく神のみ旨に逆らうようになったので、新バビロニア(アッシリヤ帝国が滅亡したのち、カルデヤ人によってバビロンを首都とする新バビロニア王国、あるいはカルデヤ王国が創立された)に渡して滅亡するように道を運ばれたのである。
神はユダヤ王国を滅ぼされたのち、メシヤが降臨されるときまで、ユダヤ民族を多くの異邦に属するようになさることによって、この民族の王位を空位にしておかれたのであった。特に、ユダヤ民族を、民主主義の礎であるギリシャ文明圏内の属国となるように道を運ばれて、将来、メシヤが降臨されたとき、もしユダヤ民族が彼を歓迎するならば、民意によっていつでもメシヤが王位を継ぐことができるように、民主主義型の社会をつくっておかれたのであった。ところが、ユダヤ人たちの民意はイエスに王位を継がせるという方向をとらず、かえって、彼を十字架で殺害してしまったので、これをもってアブラハムの血統的な子孫を中心として成就されようとした二〇〇〇年の復帰摂理の目的は、霊的にしか達成されないようになったのである。
(二) 復帰摂理延長時代における歴史発展
(1) 復帰摂理と西洋史
キリスト教を迫害したローマ帝国は、四世紀末に至って、ついに、亡くなられたイエスの前に屈伏し、キリスト教を国教として定めたのであった。しかしながら、もし初めからユダヤ民族がイエスをメシヤとして信じ、彼に仕えて彼と一つになっていたならば、ローマ帝国を中心として地中海を基盤として成立していた古代の統一世界は、当然生きておられるイエスによって感化され、彼を王として信奉し、エルサレムを中心とする王国を建設し得たはずであった。しかし、ユダヤ民族は、不信仰に陥って滅亡してしまい、メシヤ王国のための土台となるべきであったローマ帝国も、次第に衰えはじめ、西暦四七六年二は、西ローマがゲルマンの傭兵隊長であるオドアケルによって滅ぼされてしまったのである。このようにして、神の復帰摂理は、恨みの地ユダヤより、西ローマの版図であった西欧に移されていったのである。したがって、イエス以後におけるキリスト教による霊的復帰摂理は、西欧を土台として成就されてきたので、この時代の復帰摂理歴史は、西欧においてのみ、典型路程に従って発展するようになったのである。唯物史観で論じているところの歴史発展の過程も、西欧の歴史にのみ適応されるようになっているのであるが、そのような理由も実はここにあったのである。このようにして、西欧を中心とするキリスト教史は、復帰摂理延長時代を形成する中心的史料となったのである。
(2) 宗教史と経済史と政治史との相互関係
神は人間をして、有形、無形の両世界を主管することができるようにするため、肉身と霊人体との二つの部分をもって人間を創造されたということについては、既に、創造原理のところで論じたはずである。ゆえに、人間がもし堕落しなかったならば、その霊人体は、肉身と共に成長し完成することによって、霊肉両面の知性が、同時に地上の肉身生活の中で、完全な調和をなし得たはずであった。ところが、人間は、堕落することにより、霊肉両面の無知に陥るようになったのである。ここにおいて、人間の霊的無知は宗教によって、また、その肉的無知は科学によって啓発されてきたのであるが、このことに関しては、既に前編の第三章第五節(一)において論じたところである。
ところで、霊的無知は、宗教をもって堕落人間の中に潜在している本心を呼び起こすことにより、彼らが見ることのできない原因的な世界を探し求めるにつれて、漸次啓発されてきたのである。しかし、宗教は、だれしもがみな痛切にその必要性を感ずるというものではないので、霊的な面の啓発は、ある特殊な人間においては飛躍的なものであっても、一般的には、非常に緩慢なものであるといわなければならない。これは、宗教が世界的に普遍化されている今日においても、霊的な面では、古代人と大差のない人間が多いという事実をもってみても、推察し得ることである。ところが、これとは反対に、肉的な無知は、だれでも認識し得る結果の世界、すなわち、自然界(肉界)に関することを科学的に探求することによって啓発されてきたのであった。しかも、科学は、現実を打開するものであるために、だれにも必要不可欠なものである。それゆえに、肉的無知に対する啓発は、急進的であり、かつ、普遍的である。このように、探求していく対象が、宗教においては目に見えない原因の世界であるので、超現実的なものであるのに反し、科学においては目に見える結果の世界、すなわち、物質世界であり、これは現実的なものであるがゆえに、今まで、宗教と科学は、理論的に妥協することのできないものとして、衝突を免れ得なかった。そればかりでなく、被造世界の主権を握っているサタンが、現実生活を通して、人間に侵入してくる関係上、今までの宗教の道は、現実を見捨てなくては行かれない道であると見なされてきたので、現実を追求する科学と、互いに調和をなすことができなかったのは当然なことといえる。次の章の第一節で詳しく論ずるが、神は元来、人間の外的な肉身を先に創造され、その次に、内的な霊人体を創造されたので(創二・7)、再創造の原則によって、復帰摂理も、外的なものから内的なものへと復帰していく過程を踏むようになるのである。このような摂理的な原則から見ても、科学と宗教は互いに調和することのできない発展過程を事実上歩んできたのである。
このような不調和は、宗教と経済との関係においても同じである。それは、経済もまた科学と同じく現実世界に属するものであり、その上、科学の発達と密接な関係をもって発展するものだからである。このような関係により、神の内的な摂理による宗教史と、その外的な摂理による経済史とは、その発展においても、互いに、方向と進度を異にせざるを得なかったのである。ゆえに、かかる神の復帰摂理の典型路程を歩んできた西欧における歴史発展を、摂理的な面から把握するためには、キリスト教史と経済史とを各々別に分けて考察しなければならないのである。
ところで、宗教と科学とが、上述のような関係におかれているのと同様、宗教と経済もまた、堕落人間の内外両面の生活を、各々分担して復帰しなければならない使命を担っているので、これらがまったく何らの関係もなしに発展するということはありえないことだといわなければならない。ゆえに、宗教と科学とは、したがって、宗教と経済とは、その発展過程において、互いに対立しあう側面をもちながらも、我々の社会生活と関係を結んで、それぞれが、各々キリスト教史と経済史とを、形成してきたのであった。では、それらは、我々の社会生活と、いかにして結びつくことができたのであろうか。それは、とりもなおさず、政治によって結ばれたのである。キリスト教化された西欧においてはなおさらである。西欧における政治は、急進的な科学の発達に伴う経済発展と、復帰摂理の明確な方向をとらえることができずに、迷いの中にあったキリスト教の動きとを、社会生活の中で調和させていくという方向に向かって進まざるを得なかったので、その政治史は、宗教と経済とを調和させていくいま一つの新しい方向に向かうようになったのである。したがって、復帰摂理のための歴史の発展を正確に把握するためには、政治史に対してもこれまた、別途に考察することが必要となってくるのである。これに対する実例として十七世紀末葉における西欧の歴史について、その発展過程を考察してみることにしよう。
まず、宗教史の面から調べてみると、この時代において、既に、キリスト教民主主義社会が形成されていたのである。すなわち一五一七年の宗教改革により、法王が独裁していた霊的な王国が倒れることによって、中世人たちは、法王に隷属されていた信仰生活から解放され、だれもが聖書を中心として、自由に信仰生活をすることができるようになった。しかし、政治史の面から見るならば、この時代には、専制君主社会が台頭していたのであり、経済史の面においては、いまだ荘園制度による封建社会が、厳存していたのである。このように、同時代における同社会が、宗教面においては民主主義社会となり、政治面では君主主義社会、そして、経済面においては封建主義社会となっているのであるから、復帰摂理の立場からこの時代の性格を把握するためには、その発展過程を、各々別途に考察しなければならないのである。
そのためには、復帰摂理時代(旧約時代)における歴史発展が、どうしてそのような過程を歩まなければならなかったのであるかを我々は知らなければならない。古代社会においては、科学の発達がほとんど停頓状態におかれていたので、経済発展もまたそうであった。いまだ生活様式が分化される以前の旧約時代のイスラエル民族は、指導者の命令により、厳格な律法に追従する主従関係の社会制度のもとで単純な生活をしていたので、彼らの宗教生活は、すなわち彼らの社会生活となっていたのである。したがって、その当時には、宗教と政治と経済とが分立して発展することはなかったのである。
(3) 氏族社会
それでは我々は、ここにおいて、復帰摂理延長時代(新約時代)において、宗教と政治と経済などの各部面から見た歴史発展が、どのようなものであったかということについて、調べてみることにしよう。サタンを中心とする原始共同社会は、神の復帰摂理に対応する人間の本心の作用によって分裂に導かれ、その中で、神のみ旨に従う人間が分立されることによって、天の側の氏族社会が形成されたということは、既に明らかにした。これと同じく、イエスを殺害したユダヤ民族は、既に、サタン側の系列に転落してしまったので、神はこの社会をそのままに放置しては復帰摂理をなさることができなかったのである。したがって、神はこの社会を分裂させ、その中から、篤実なキリスト教信徒だけを呼びだされて、彼らを中心としてキリスト教氏族社会を立てられたのである。
旧約時代においてヤコブの十二子息を中心とした七十人家族が、イスラエルの氏族社会を形成して、摂理路程を出発したように、新約時代においてはイエスを中心とした十二弟子と七十人門徒が、キリスト教氏族社会を形成して、摂理路程を出発したのである。キリスト教氏族社会は、原始キリスト教社会であったから、そのときには、いまだ政治や経済においても、取り立てていかなる制度をも必要としなかったのである。したがって、この時代においては、まだ宗教と政治と経済とが未分化で、それぞれに分立した発展をなすには至っていなかったのである。
キリスト教氏族社会は、地中海を基盤とした古代統一世界の中で、ローマ帝国の厳しい迫害を受けながら繁栄し、キリスト教部族社会を形成するに至ったのであった。そして、四世紀後半から始まった民族大移動により、西ローマ帝国は、ついに四七六年に滅亡してしまい、その版図内に移動してきたゲルマン民族にキリスト教が浸透することによって、彼らを中心とした広範なキリスト教社会がつくられたのである。
(4) 封建社会
歴史の発展過程において、氏族社会の次にくるものは、封建社会である。このような原則によって、西ローマ帝国の滅亡と前後して王権が衰退してしまい、国家が無秩序な状態に陥ったとき、封建社会が形成されはじめたのである。このときから西ヨーロッパのキリスト教社会は、宗教と政治と経済とが分化され、各々が相異なる発展をしていくようになったのである。封建社会は、大中小の領主と騎士たちとの間に、服従と奉仕とを前提として結ばれた主従関係による政治制度を、荘園制度による封鎖的な自給自足の経済制度をもって、形成されたのであった。国土は、多くの領主たちによって分割されたし、国王は、事実上、領主の中の一人であったから、国王の権力も、地方分権的であったのである。領主たちは、上部から、恩貸地としての土地の分配を受けて、彼らの独立領地をつくり、その内で裁判権まで行使したのである。したがって、この領地は、ほとんど国家の権力から離れた私領と異なるところがなかったのである。このようにしてつくられた私領的なものを、荘園という。
自作農の下層の人々が、主権者たちの保護を受けるために、自己の所有地をいったん、領主または寺院に寄贈し、その上でその土地を、再び、恩貸地として貸与してもらうかたちでつくられた荘園もあった。このようにして、荘園は全国に広がっていったのである。最下級に属する騎士は、一つの荘園を分けてもらい、領主の私兵として仕えたのであったが、国王や領主はこのような荘園を数百から数千も所有していたのであった。
宗教面においても、それは、キリスト教を中心として、既に論じた封建社会と同一の方向に向かって発展するようになったのであるが、これを、キリスト教封建社会というのである。すなわち、教区長、大主教、、主教は、大中小の領主に該当する地位をもっており、国王が領主の中の一人であったように、法王もまた、教区長の中の一人であった。そこにも、絶対的な主従関係による宗教的な政治制度があり、主教たちは信徒から寄贈された封土をもつようになって、彼らは、封建的な階級層の中で有力な地位をもつ領主ともなっていたのである。
つぎに、経済面からこの時代を考察してみるならば、この時代は、古代奴隷制度から荘園制度へと移った時代であった。したがって、平民は、このときから土地を所有するようになったのである。そして、この時代の土地制度による身分は、おおよそ、地主、自作農、農奴(半自由身分)、奴隷(不自由身分)などの四階級に分かれていたのである。このように、神は、ゲルマン民族を、新しい選民として教化され、封建社会を樹立されることにより、衰亡した西欧の土台の上に、宗教と政治と経済の三面にわたる、小単位の天の側の版図を強化し、将来、天の側の王国を建設するための基台を、準備することができたのである。
(5) 君主社会と帝国主義社会
歴史の発展過程において、封建社会の次にくるのは君主社会である。それでは、このときの西欧における君主社会は、政治面から見ると、どのような形成の過程をとったのであろうか。
西欧に移動したゲルマン民族が立てた国々は、みな、その存立期間が短かったのであるが、フランク王国だけは長い間存続していた。フランクは西ゲルマンに属する一部族であり、それがメロヴィング王朝を建てたのち、キリスト教と結合してローマ文明を吸収し、西欧にゲルマン的なローマ風の世界をつくったのであった。この王朝が没落したのち、チャールズ・マルテルは、西侵してきたアラビア人を追い払って勢力を伸ばし、その子ピピンはカロリング王朝を建てた。ピピンの息子であるチャールズ大帝は早くから聖アウグスチヌスの「神国論」を崇拝していたが、王位につくや否や、彼は、アウグスチヌスの「神国論」を国家理念とする君主国家を建てようとしたのであった。そして、チャールズ大帝は、中部ヨーロッパを統一し、民族の大移動によって混乱に陥っていた西ヨーロッパを安定させて、強力なフランク王国を確立したのである。
つぎに、宗教面において、キリスト教封建社会のあとに続いて現れたキリスト教君主社会は、「メシヤのための霊的基台」の上で法王を中心としてたてられた国土のない霊的な王国社会であった。そして、法王レオ三世が、紀元八〇〇年にチャールズ大帝を祝福して、彼に皇帝の冠を授与し、天的な嗣業を相続させることによって、法王を中心としてつくられた霊的な王国と、政治的に形成されたフランク王国とが一つになり、キリスト王国をつくったのである。
キリスト王国時代は、旧約時代の統一王国時代と同時性の時代である。このように、封建時代のあとに続いて王国時代がきたということは、封建社会を統合することにより、より大きい天の側の主権と、その民と、版図とを形成するためであったのである。したがって、既に論じたように、天使長の立場から実体世界を復帰するための基台を準備してきた法王は、国王を祝福したのちは、カインの立場で彼に従い、また、国王は、法王の理念に従って、メシヤ理想を実現するための政治を施し、キリスト王国を完全に神のみ旨にかなうように立て得たならば、この時代が、すなわち、メシヤを迎えることができる終末となるはずであった。このようにして、そのときまで互いに妥協することができず、衝突しあってきた宗教と科学とを、一つの課題として完全に解決することができる真理が現れたならば、そのときに、宗教と政治と経済とが、一つの理念を中心として、完全に一致した方向に向かって発展することにより、その基台の上で「再臨されるメシヤのための基台」がつくられるはずだったのである。それゆえに、キリスト王国時代がくることにより、封建時代は、そのときに、完全に終わってしまわなければならなかったのである。ところが、法王や国王たちが、みな、神のみ旨に反するようになったので、チャールズ大帝の本来の理想を実現することができなくなり、そのため頑強な封建制度の基礎は揺るがず、その後においても、長い間にわたって存続したのであった。したがって、宗教と政治と経済とは依然として互いに分立されたままとなり、その結果、法王を中心とする霊的な王国と、国王を中心とする実体的な王国も、依然として分立されたまま、対立して調和し得ない立場をとるようになったのである。
このようにしてチャールズ大帝は、円熟した封建制度の上に王国を建設しはしたものの、その障壁を崩すことができなかったので、事実上、彼は、一人の大領主の立場に立っていたにすぎなかったのである。キリスト王国が、このように、再臨されるメシヤを迎えることができる王国をつくることができなかったので、封建制度は次第に強化され、政治面における封建階級社会は、専制君主社会が興るときまで全盛を極めたのである。十七世紀の中葉にかけて、封建階級が没落するにつれて、地方に分割された領主たちの権力は、国王を中心として、中央に集中するようになった。そして、王権神授説を政治理念として君臨した国王は、絶対的な権限をもつようになってしまった。このように、国王が、封建階級社会の領主の立場を離れて、政治面における君主社会を事実上形成したのは、十七世紀の中葉から一七八九年にフランス革命が起こるときまでであったと見なすことができるのである。
つぎに、宗教史の立場から見たキリスト教君主社会の帰趨は、どのようなものであったのであろうか。この時代の法王たちは、神のみ旨のもとに立つことができず、世俗化されてしまったので、彼らは、心霊的な面から衰退の道を歩むようになったのである。その上に、なお、十字軍戦争に敗れることにより、法王の威信は地に落ちてしまい、また法王が、南フランスのアヴィニョンに幽閉されることによって、彼らは、有名無実の立場に落ちてしまったのである。そして、法王を中心とする霊的な王国であったキリスト教君主社会は、一五一七年の宗教改革が起こるときまで存続したのである。
この時代の経済面における発展過程を見れば、封建的経済制度は、封建的な政治制度が没落して、中央集権化した専制君主社会になっても、依然として存続され、フランス革命のときまで残されるようになってしまったのである。そして、農業経済の面ではいうまでもなく、資本主義化されてきた他の経済面においても、封建制度の領域を越えることができなかった。すなわち、自営農民たちは封建領主の支配に対抗するために、国王の権力に依頼したのであったが、彼らも封建制度の領域を越えることができなかったし、また、マニファクチャーの経営者たちは、封建的な分裂が不利であるということを知って、中央集権の国王と結託したのであったが、結局、彼らもまた、封建化された商業資本家となってしまったのである。
歴史の発展過程において、封建社会のあとに続いてくるのが君主社会であるとするならば、経済面における封建社会のあとに続いてくるものはいったい何であろうか。それは、とりもなおさず、資本主義社会と、そのあとにくる帝国主義社会なのである。国家に対する独裁が、君主主義の特色であるように、金融資本に対する独占が資本主義、特に、帝国主義の特色であるからである。資本主義は、十七世紀の中葉、専制君主社会が始まったときから芽を吹きだし、イギリスの産業革命期からは、次第に円熟期に入るようになったのである。このように、資本主義社会がくるようになったのは、封建的な経済制度によって確保された小単位の経済基台を、より大きな基台として確保するためであった。そして、一歩進んで世界的な経済基台を復帰するために、資本主義は、帝国主義の段階に移行するようになったのである。ここにおいて、再び、記憶しなければならないことは、神の復帰摂理の典型路程は、西欧を中心として形成されたという点である。したがって、ここで論ずる帝国主義も、西ヨーロッパを中心として展開されたものを指していうのである。
西欧で膨張した帝国主義思想は、西欧の各々のキリスト教国家をして、第一次世界大戦を前後して、地球の全地域にわたって植民地を獲得するようになさしめた。このようにして、世界は急進的にキリスト教文化圏のうちに入ってくるようになったのである。
(6) 民主主義と社会主義
君主主義のあとにきたものは民主主義時代であった。ところで、君主主義時代がくるようになった理由は、既に明らかにしたように、将来、メシヤを王として迎えることができる王国を建設するためであったのである。しかるに、この時代が、そのような使命を完遂することができなかったので、神は、この社会を打ち壊し、メシヤ王国を再建するための新しい摂理をされるために、民主主義を立てられたのである。
民主主義とは、主権を人民におくことにより、人民がその民意に従って、人民のための政治をする主義をいう。したがって、民主主義は、メシヤ王国を建設なさろうとする神のみ旨から離脱した君主主義の独裁を除去し、メシヤを王として迎えるために、復帰摂理の目的を達成することができる新しい政治制度を建てようとするところに、その目的があるのである。人間は、歴史が流れるに従って、復帰摂理の時代的な恵沢を受け、その心霊が次第に明るくなるので、この摂理に対応する人間の本心は、我知らず宗教を探し求めるようになるし、また、宗教を探し求めるその本心は、結局、神が最終的な宗教として立てて摂理されるところの、キリスト教を探すようになるのである。
今日の世界が、一つのキリスト教文化圏を形成しつつある原因は、実にここにあるといわなければならない。それゆえに、歴史が終末に近づけば近づくほど、民意は、次第にキリスト教的に流れるほかはないのであり、このような民意に従う民主政体も、これまた、キリスト教的に変移せざるを得ないようになるのである。このようにして、キリスト教精神をもって円熟した民主政体の社会にメシヤが再臨されれば、その民意によって、神の主権を地上に立て、地上天国を復帰することができるようになるのである。したがって、民主主義は、結局サタンの独裁をなくして、再臨されるイエスを中心とする神の主権を、民意によって復帰なさろうとする、最終的な摂理から生まれた主義であるということを、我々は知らなければならない。このような理由によって、十八世紀の末葉に至って、専制君主主義に対抗して起こった民主主義は、イギリス、アメリカおよびフランスで民主主義革命を起こし、君主社会を崩壊せしめて、民主主義社会の基礎を確立したのであった。我々は、既に歴史発展の観点から民主主義を考察したのであるが、ヘブライズムとヘレニズムとの摂理的な流れから見た民主主義に関しては、次の章で論ずることにする。
つぎに、宗教の面における歴史発展過程においても、一五一七年の宗教改革により、法王を中心とする国土のない霊的な王国が倒れたのち、キリスト教民主主義が到来したのであった。キリスト教民主主義は、宗教改革を起こすことによって、法王が独裁してきた霊的な王国を倒してしまったのである。元来、法王を中心としたこの王国は、既に説明したように、法王と国王と一つになり、再臨なさるメシヤを迎えることができる王国をつくらなければならなかった。ところが、法王がこの使命を完遂できなかったので、あたかも、専制君主社会の独裁的な主権を倒すために、民主主義が生じてきたように、神のみ旨から離脱した法王の独裁的な主権を倒すために、キリスト教民主主義が生まれてきたのである。したがって、宗教改革以後においては、法王や僧侶を通じないで、各自が聖書を中心として、自由に神を探し求めていくことができる、キリスト教民主主義時代がくるようになったのである。このように、宗教の面においても、信徒たちがどこにも隷属させられることなく、自由意志によって信仰の道を尋ねていくことができる時代に入ってきたのである。このようにして、キリスト教民主主義は、将来メシヤがいかなる形態をもって再臨されても、彼と自由に接することができるキリスト教的な社会環境を形成し得るようになったのである。
また、経済史の発展過程においても、その発展の法則によって帝国主義を倒し、民主主義的な経済社会をつくるために、社会主義が生ずるようになるのである。そして、第一次世界大戦は、帝国主義国家群の植民地獲得のための戦争であるとも見ることができるのであるが、第二次世界大戦が終わるころからは、帝国主義の植民政策を打開するための国家的民主主義が台頭して、列強国家群は、植民政策を放棄し、弱小国家群を解放せざるをえなくなったのである。したがって、資本主義経済時代は、帝国主義の崩壊を転機として、社会主義的な経済時代に転移するようになったのである。
共産主義社会を指向するサタン側の世界において、かく社会主義を唱えるのは当然の主張であるといわざるを得ないのである。なぜなら、その方向と内容とは全然異なるものであるとしても、社会主義的な経済体制に向かって歩んでいこうとする天の側の路程を、サタン側から先んじてつくっていこうとするものだからである。神の創造理想から見るならば、人間に与えられた創造本然の価値においては、彼らの間にいかなる差異もあるはずがない。したがって、神は、あたかも我々人間の父母がその子供たちに対するように、だれにも均等な環境と平等な生活条件とを与えようとされるのである。したがって、生産と分配と消費とは、あたかも、人体における胃腸と心臓と肺臓のように、有機的な関係を保たなければならないから、生産過剰による販路の競争や、不公平な分配によって、全体的な生活目的に支障をきたすような蓄積や消費があってはならない。必要に基づく十分な生産と、過不足のない公平な分配、そして、全体的な目的のための合理的な消費をしなければならないのであり、そのためにちょうど人体における肝臓のように、機能全体の円滑な活動のために、適宜な貯蓄をしなければならないのである。
人間は、このような理想をもって創造されたので、その理想を復帰し得る摂理歴史の終末期に至り、民主主義的な自由を獲得し、人間の本性を探し求めていくならば、結局、だれもがこのような社会主義的な生活体制を要求せざるを得ないようになるのである。したがって、民意がこのようなものを要求するようになれば、民意による政治も、そのような方向に向かって進まざるを得ないようになるので、最後には、神を中心とする社会主義社会が現れなければならない。古代のキリスト教社会においても、我々は社会主義的な思想を発見することができるし、十六世紀におけるイギリスのトーマス・モーアのユートピア思想も、このような社会主義的なものであった。また、イギリスの産業革命機に起こったオーエンの人道主義に立脚した思想、そして、十九世紀に入るや、イギリスのキングスリーのキリスト教思想によるカトリック社会主義やプロテスタント社会主義などが生まれてくるようになったのは、みな、創造理想を指向する人間本性の自然的な発露からもたらされたものであると見なさざるを得ないのである。
(7) 共生共栄共義主義社会と共産主義
神の復帰摂理の時代的な恵沢は、サタンの侵入によって発揮することができなかった人間の創造本性を啓発していく。人間は、このような本性の欲求によって、我知らず神の創造理想の世界を憧憬し、それを探し求めていくようになるのである。したがって、天の側の社会主義社会を指向する人間の本心は、結局、共生共栄共義主義を主張し、神の創造目的を完成した理想世界をつくるところにまで行かなければならないのであるが、この世界が、すなわち、再臨されるイエスを中心とする地上天国なのである。
サタンは、神の摂理を先立って成就していくので、サタンの側からは、先に、唯物史観に立脚した、いわゆる科学的社会主義を叫びながら共産主義世界へと進んでいく。彼らは、このような歴史発展観に立脚して、人類歴史は、原始共産社会から再び共産主義社会へ戻ると主張するのであるが、その原因については、全く知らずにいる。神は、人間を創造されてのち、彼らに地上天国を実現を約束されたので、人間と血縁関係を先に結んだサタンが、堕落人間を中心として、原理型の非原理世界を先立ってつくっていくことを許さざるを得ない。そして、神が復帰なさろうとするところの地上天国を、サタンが先んじて成就した原理型の非原理世界が、すなわち、共産世界なのである。
あたかも君主主義の政治的な独裁を防いで、その主権を、人民のものとして取り戻すところから、民主主義が生じたように、国家の財産が、ある特定の個人階級に独占される帝国主義的な経済体制を打破して、人民が、それを均等に享有するようになる経済体制を樹立するために、社会主義を経て、天の側からは、共生共栄共義主義社会を指向し、サタンの側からはそれに先立って共産主義を指向するのである。したがって、社会主義は、あくまでも真実なる民主主義的な経済社会をつくるために、生じたものであると見なければならない。
我々は、既に、西欧を中心としてつくられた復帰摂理歴史が、宗教史と政治史と経済史の三面に分立され、各々が、公式的な路程を通じて発展してきたということを明らかにした。それでは、これらはいったいどのようにすれば、お互いが同一の歴史路程に導かれて融合される摂理歴史をもって終結し、再臨理想の基台を準備することができるであろうか。既に、上において我々は、人間の霊肉両面の無知を打開するための宗教と科学とが、一つの課題として解決されなかったために、歴史の動向が三分されて発展してきたということを説明した。したがって、このように、三つの部面に分かれて発展してきた歴史が、一つの理想を実現する焦点に向かって帰結されるためには、宗教と科学とを、完全に統一された一つの課題として解決し得る新しい真理が現れなければならないのである。そうして、このような真理に立脚した宗教によって、全人類が神の心情に帰一することにより、一つの理念を中心とした経済の基台の上で、創造理想を実現する政治社会がつくられるはずであるが、これがすなわち、共生共栄共義主義に立脚した、メシヤ王国なのである。